メルヘンの読み方


瀬戸一夫『ムーミンの哲学』P243~


■コペルニクス的な解釈の転回
メルヘンというものは、いつもと少し違った眼差しをむけることを、どこか誘っているところがある。

・本書で用いた解釈法

一つの作品が何をテーマとしているのかをよく考え、その文脈で個々の台詞や出来事を受け取らなければならない。

個々の台詞や出来事が持つ意味に配慮しながら、想定された文脈を絶えず点検し、その奥行きに迫らなければならない。

不可解に思える事柄と、そうでない事柄とを明確に区別し、それぞれに固有な論理があることを考慮しなければならない。

意味不明な展開は、他の明確な台詞や出来事が持つ意味から、しかもそれらすべてが相互に整合する観点を模索しつつ理解すべきである。

一つの作品において、個々の台詞から出来事はいずれも、わたしたちが作品の外側から持ち込む常識を背景としているのではなく、その作品に固有な世界のなかでのみ、本来の意味ないし内容を示している点に配慮しなければならない。

したがって、常識的な観点から作品に固有な世界を覗き込むだけではなく、その世界に入り込んだ観点から、むしろわたしたちの抱え込んだ常識を眺めなおしてみるのがよい。

最後に、優れた作品の内容は首尾一貫しているものと仮定して、その理解に努めることが基本であり、もしも首尾一貫していないのであれば、それは優れた作品ではありえない。

『ムーミンの哲学』メモ

P24~
■アウグスティヌスの疑問
…非常に有名な一説がある。「時間とはいったいなにか。もしも、誰もわたしに尋ねないなら、わたしは(それがなにであるのかを)知っている。しかし、尋ねる人に説明しようとすると、わたしは(それがなにであるのかを)知らないのである。」…時間はだれにとってもおなじみのものである。ところが、それは何かとあらためて問われると、誰もがその説明に窮してしまう。

「もしも、何も過ぎ去らないのであれば、過去という時間は存在せず、何も到来しないのであれば、未来という時間は存在しないだろう。そして、何も存在しないならば、現在という時間は存在しないだろう。」ところが、過去は「もはや存在しない」からこそ過去であり、未来は「まだ存在しない」からこそ未来なのである。現在についてもまた、仮にそれが過去へと移っていかないのであれば、経過することのない「永遠」になってしまう。そのような永遠を、わたしたちが「現在」として理解しているのかというと、そのようなことはない。わたしたちの現在はつねに過ぎ去っていくのである。しかし、現在という時間が不断に過ぎ去っていく、つまり瞬く間に消失することからすると、どのような理由から「現在は存在する」といえるのだろうか。


P26~
■過去はどこに行ったのか?
アウグスティヌスの宗教的な世界観→この世界は髪が無から創造したのであり、創造に先立つ無には時間さえ存在する余地が無い。…現代人は過ぎ去ったことであっても、それが時間軸上のどこかに保存されているように想定するが、過ぎ去ったこと「そのものずばり」を今ここに持ち出そうとしても不可能である。むしろ、そのような企ては、まったく無意味であろう。まさしくこの意味で過去は存在しない。未来がまだ存在しないという指摘も、これと同様の理由から、未来は端的に無だ、ということを意味している。さらには、過ぎ去る現在もまた、きわめて危ういものとなる。いうのも、在るかないか一方だけしかない以上、矛盾に満ちた過ぎ去る(在りかつ無い)現在という時間は、とうてい確かに存在するとはいえないからである。それでもなお、時間とは何であるのかを「誰もわたしに尋ねないなら、わたしは知っている」のである。

 以上からアウグスティヌスは、単なる物質とは異なったものとして創造されたわたしたちの魂が、期待という仕方で先へ、また記憶という仕方で背後へと双方向に延びる働きだと考えた。

…魂の働きは神によって創造されたことを想起しつつ、神の愛へと向かうよう創造されていて、その限りでのみ、過ぎ去る現在のもとにあっても、かろうじて無への転落をまぬがれつつ存在しているということである。(いかなるときも神の支えを必要とするわたしたち/不断に無へと転落する時間的な世界の歴史)

…すなわち、過ぎ去る現在に生かされているわたしたち人間に、もはや無い過去が記憶や記録というかたちで、そしてまだ無い未来が期待という仕方で、いわば無のまま神によって示されているのである。


P81~
■オッカムの剃刀
「必然性がないかぎり、複数のものごとを立ててはならない。」この方針はようするに、全能の神はなにごとであれ、中間的なプロセス(ものごと)がないと矛盾に陥るのでないかぎりは、一切の無用なプロセスを抜きにして直接それを達成できるという信仰と表裏している。しかし、あくまでも神は全能であるから、逆にプロセスを抜きに達成できることを、中間的なプロセスを通じて達成することもまたできる。このため、オッカムの採る方法は、必然性(必要性)のないものごとや中間的なプロセスを切り捨てる方向と、切断したまま保存する自由とを両面的に獲得する。


P106~

ムーミン作品を読んでの著者の詩

見知らぬ人々が
いつも眼差しをむけている
しかし
そうした人々の間で
人は人間となる


P116~
■ヘラクレイトス「Aかつ非A」
ようするに、Aということが主張されたとき、ともかく機械的に「Aかつ非A」と予言しておけば、いずれ誰かが非Aを実証してくれる。そして、Aが確実になったときに、その時点では異様に思えても「非A」を主張しておけば、異様であればあるほどそれが実証されたとき、予言「Aかつ非A」はすごみをもつ。しかも、すごみがあるほど、今度は誰もが必死に「非B」を、さらには「非C」…を発掘してくれるのである。(予言の自己成就)

しかしそれはヘラクレイトスの言い分として理解してはならない。
…「わたしにではなく、このロゴスにきいて、それを理解した以上は、ロゴスに合わせて、万物が一であることに同意するのが知というものである。」Aかつ非A、Bかる非B、Cかる非C…はヘラクレイトスの言い分ではなく、かれを介して掲示された神(ロゴス)にほかならないからであろう。

いうまでもなく、非A、非B、非C…を際限なく追求する労力は、人間たちに課せられている。とはいえ、その成果が挙げられると、すべては自己成就する神に吸い上げられるのである。


P121~
■ヘーゲルの弁証法
自然哲学の一節
「自然は自己自身に関している絶対精神である。絶対精神の理念は認識されているので、この”自己自身に”もまた一つの規定として、さらにはそのように関係している精神も、実在的な絶対精神の一契機として認識される。自然が受け取られるその仕方は、とらわれることなく自己と等しい、という在り方としてではなく、一つのとらわれた精神としてである。このとらわれた精神の現実存在は無限であり、あるいはその自己への反省において、同時に解放であり、他であるというこのことにおいて、自らを絶対精神としてみる精神への移行である。したがって、自然の意図は、ただ精神の理念として現れるように自らを規定するだけではない。それはひとつの規定として、絶対に実在的な精神に対立し、それが絶対精神であろうとする本質に対して他であるという、まさにこの矛盾を、自己自身のもとにもつ理念として現れるよう、自己を規定するのである。」

…意味不明な論理の展開に出会ったとき、これは論理などではなく、実は心理ではと疑ってみると意外に分かり易くなることがある。

「絶対精神=本当の僕」
「自然=現実の僕」
「精神=僕」
で再解釈。

ヘーゲルの絶対精神は天真爛漫な子ども心を理屈で固めたもの、つまり、自分自身だけが関心の的で、ほかはどうでもよく(無)、矛盾まで自分が満足するための道具になるのだから、遠慮もためらいもない。ということになる。


P140~
■スナフキン
「僕は旅に出よう、かげぼうしと二人で」。この言葉にも表れているように、スナフキンの影ぼうしは子分ではなく、いつも自分と共にある単なる影ぼうしでだった。他の人に見つめられた自分の姿は、自分の子どもでありつづける必要などまったくない。そうすることなど誰にもできないことを、スナフキンはよく知っていた。かれにとって、子分としての影ぼうしは、そもそも必要なかったのである。「影ぼうしが見ていようと、…と思うとおりに暮らしていればいい。」しかもそのように暮らすことは、誰かにそのようにしてもらうのではなく、自分自身の問題である。「ぼくにはどうにもできないな。でも、きみたち自身にはできるはずだよ。」


P197~
■ウィトゲンシュタインと説明の拒否
「語りえぬことについては沈黙しなければならない」

オッカムの剃刀でいえば、さまざまな言語や記号を用いれば語りえるものごとと、そもそも語るといことにはそぐわないものごとをきっぱりと切断したのである。

ウィトゲンシュタイン後期の「言語ゲーム」という言語観においても、語り得ないものごとをきったまま温存させ、それらが言葉によって説明されることを、断固として拒否したとされている。

【言語ゲームの言語観】
わたしたちのコミュニケーションは、言葉や記号によって、意思や意味を互いに伝え合っていると考えられがちである。しかし、意思や意味と呼ぶにふさわしい何かが定まっていて、それがコミュニケーションにより伝えられる、と考える必然性も必要性もない。たとえ、その種の何かがあると思い込まれているとしても、その種の何かとはまったく無縁に、言葉や記号をその一側面とする、わたしたちの相互行為は現に成り立っている。必要だと思われている”意思”や”意味”といったものは、むしろ言語を使用したゲームのように進展する、生活世界の相互行為によって生み出され、また支えられているのである。

日常言語に織り成される生活世界は、無数の儀式が集積した総体として、そのつど人びとによって営まれつつ成り立つ世界である。「日常言語というものは、人間という有機体の一部であり、これに劣らず錯綜している。」そして、それぞれの儀式にとって重要なものごとの大半や、無数の儀式が集積して営まれている生活世界の、とくに核心となるものごとは、科学によっても、またそれ以外の知識を総動員しても語り得ず、ましてや説明することなどできやしない。というのも、科学その他の知識は、それぞれの儀式に応じた言語ゲームの一産物、あるいは一面的な像に過ぎないので、生活世界の全貌をこれに置き換えるということは、正確な地球儀をつくった後に、人類もろとも地球を無用であるかのように扱う企てと同様になってしまうからである。


P221~
■太陽は東から昇らない?
コペルニクスは「太陽は東から昇る」という経験的な事実を、単純な意味で切り捨てたのではない。それどころか、この事実が将来にわたって信頼されてよいという裏付けを、天文学上の理論的な事実として提供していた。そして、この点に関しては、小熊座をめぐるタレスの「見立て」と完全に符合する。コペルニクスによって、外見上は全面対立する「太陽は東から昇る」と「太陽は東から昇るのではない」は、それぞれ経験的な事実と理論的な事実へと領域分配された。そしれ、この分配により、双方の主張は互いに他方を補完するようになる。

オッカムの剃刀で表現すれば、コペルニクスの地動説は、わたしたちの経験的な事実である「太陽は東から昇る」を切った。ここで切り落とされたのは、将来も変わらないという断定や、大地のうえに固定された視点を絶対化する姿勢などであり、この切り落としによって、経験的な事実をさまざまな角度から理解する膨大な可能性が確保されたのである。と同時にまた、経験的な事実としては認めるほかない「太陽は東から昇る」は、切られたとはいえ無傷のまま残されている。無傷のまま残されているからこそ、理論は事実を裏付け、逆にまた、事実は理論の正しさを一つの具体例で教えてくれるのである。

…わたしたちにはまだ知られていない惑星が存在するとすれば、それがどのような軌道をとり、地上から観測するとどのように運行するか、ということまで予測できる。つまり、実際に観測してここの事実を確認するまでもなく、わたしたちは厳密に成り立つ知識を経験世界のうちに拡大していけるのである。これと同様に、哲学もまた単なる事実認識の蓄積や空理空論から脱却して、しかも厳密さを維持しながらその認識を拡張できる。カントはこのように期待して、哲学の適しにコペルニクス的な変革をもたらそうとした。


SKIN+BONES

今週は恵比寿で内定先の会社のキックオフ会があったので、ついでに国立新美術館の企画で開催されていた『SKIN+BONES 1980年代以降の建築とファッション』展に行ってきた。(2007年8月13日まで)

同期の秋葉メイド喫茶&代官山ショッピングを指しおいて1人で行ってきましたw (自己弁解じゃないけど前夜は深夜4時まで語り合ったぜ。。)


でもこの企画、テーマからして興味そそります。
大衆ウケがいいらしく、昼過ぎごろからはツアーバスで怒涛の人の流れが(!)午前中に行って大正解だった。


SKIN+BONES URL:
http://www.nact.jp/exhibition_special/2007/skin_and_bones/index.html


上記のHPから概要を一部抜粋:
「建築とファッションは、人類の誕生以来、人間の身体を守るシェルターとしての本質を共有しています。また両者は、社会的・個人的あるいは文化的なアイデンティティーの表出としての役割も担ってきました。そういった共通点があるにもかかわらず、建築とファッションは、用途やスケール、素材が異なることから、これまでほとんど同じ俎上に載せて語られることはありませんでした。

 しかし、1980年代以降、両者は急激に接近し、お互いを刺激しあっているように見受けられます。それは、この頃から両分野において、それ以前のものとは完全に異なる新しい形態をとる作品が、つぎつぎと誕生したことにも見てとれます。最近の傾向として、コンピュータをはじめとするさまざまな技術の革新が自由な造形を可能とし、表面と構造の関係に大きな変化をもたらしたことは特筆すべきことでしょう。ファッションデザイナーたちは、布を用いて、構築的で複雑な衣服を作り始め、また建築の分野では、仕立ての技術にも通ずる、より複雑なフォルムを生み出しています。大変興味深いことに両者は、「折る」、「プリーツをつける」、「ドレープをつける」、「包む」、「吊るす」、「織る」、「プリントする」などといった技法を共有し始めているように思えるのです。 



特におもろかったのはフセイン・チャラヤンの<<アフターワーズ>>コレクション(上記のURL内にも掲載)、伊東豊雄建築設計事務所(wikipediaより: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E8%B1%8A%E9%9B%84)、坂茂建築設計(wikipediaより: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%8C%82)などなど。


この展示の出版本が同時に刊行されてるんですが、あのボリュームとコンテンツで2500円です。まじお買い得で即決(ノД`)


服飾系?の学生がちらほらいてしきりに服の構成をメモ帳にデッサンしてました。話しかけたかったな~無理でした。


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フセイン・チャラヤン <<アフターワーズ>>コレクション

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新国立美術館クリアホール

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新国立美術館正面エントランス



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